2022年11月30日水曜日

茨城県の歴史の道を走る (南郷道) その2

 前回の続きです。

 

次に訪れたところは、国道118号線の久慈川を越える橋を渡らずに、左へ入ったあたり。

丸信ドライブインのところですね。


 

歴史の道の選定されている赤線の部分は、JR水郡線を越える手前付近ですね。 

ちなみに、どうやっても青線部分が現在の道とは重ならないので、既に歴史の道指定部分以外の探索は諦めました。。。(*´Д`)

今まで探し回ってはみても、ほどんど街道跡が見つからず、労力の無駄遣いになっているので、省略です!


国道118号線から左に入って、少し行くと、自治体が設置した案内板があります。

ここを左折して少し行ったところらしいです。


右側を注意しながら進んでいくと、ありました!

ここが南郷街道のようです。(文化庁の地図では青線の、選定個所ではない道全体のルート部分にあたります。)

里山のいい雰囲気です~

民家を過ぎる頃、対岸の国道と周囲の民家がきれいに見える。

ここから川沿いの急斜面を通る舗装道路と採石場へ下るあたりが歴史の道の選定個所なのですが、古い遺跡などは無いですね。。。

熊野古道のようなイメージを持って訪れると、がっかりするでしょうね。

この辺は、歴史の道を感じるというより、里山の雰囲気を楽しむのが良いと思います。

茨城県の県北地域にある沈下橋。

沈下橋といえば四国の四万十川あたりが有名ですが、関東地方にもあるんですよ~

常陸大宮市や常陸太田市近辺には、これよりも小さな車が渡れないものも結構残っています。過去にこのブログでも紹介したよ。


100年以上前の南郷街道跡をたどってみると、この橋を架けるのが困難であったから、川から近くの結構アップダウンがある道筋を通らなければならなかったのでしょうね。

川沿いを北上していくと、道沿いに南郷街道の案内板がありました。

現代であれば、久慈川にいくつもの橋が架かって、走りやすい平坦な土地がある方へ車道を通している。しかし、古い道筋は、ひたすら小高い山を越えつつ川のそばをなぞっていく。


 そして、最後がここ。


 グーグルマップで地形を重ねていくと。

富士フィルムオプティクス近くの川がカーブしたあたりになる。

 

 

実際に行ってみると、登り口がありました!

来た道を振り返ると、畑の間を通る農作業の小道ですね。(*^-^*)

ここがそのまま牛や馬が通った街道跡というには細すぎる。。。
 


まっすぐ進んでいくと、斜面にうるし畑があり、その畑の隅っこに石碑がありました。

これらは、もしかしたら、昔の街道跡付近にあったものを、開墾する時に移動したのかもしれませんね。





あたりをうろうろして、尾根の切通に出た。

ここままさしく昔の街道の痕跡ですね!



茨城県によくある犬供養のY字の物体もある。

近年まで近隣の人達が世話をしているからこそ、今でもある場所なんでしょうね。


しかし、訪れていいのはここまでですね。

わたくしはここを越えて川の方に降りていきましたが、ほぼ痕跡は残っていませんし、何より危険です。

切通を抜けて、つづら折りで下っていくのかなあ?

なんて、それらしき場所を下っていくと、その先は急斜面で道らしきものはなし。

それも納得がいくような、久慈川のカーブの外側に位置する、ひとたび自然災害が起きたならえぐられる位置にあるところなのだ。



 そして、しょうがないから戻ろうとしても、上から見た時にはそれなりに道筋があるように見えたのだが、下から見上げたらどこが道筋だか全然わからない。。。。

(しまった、iPhoneのスーパー地形アプリでGPS軌跡を記録しておくんだった。。。)

後悔の念と共に這いつくばって急斜面を登る。

直ぐ近くに民家が見えるようなところで滑落事故するわけにはいかぬ。。。

 

必死に自転車を担いで斜面を登って、さっきの切通まで戻る。

民家のすぐ近くで遭難するところであった。。。。

 


そして、最後に今回の探索を行った結論を言い表すなら。

赤線部分に古道跡があると思ってはいけない!

 文化庁の資料にある地図は、平成24年度の地形図に、昔の街道が通っていたと推定される位置をざっくりと描いてあるということで、例えば熊野古道のような過去の街道跡がそこに残っているとは限らない。だから、熊野古道のような街道跡がある位置を描いた案内図はない模様です。。。

 

 

 

 

 

 




2022年11月29日火曜日

茨城県の歴史の道を走る (南郷道)その1

以前に行った八十里越えで気になったことがあったので、今回は茨城県内にある文化庁の歴史の道100選に選定された南郷街道を走ってみました。

道の駅 常陸大宮に車をとめて、そこからチャリで巡ってみます。

先ずは、そこから一番近い所。

文化庁の資料の、水戸から近い方の下の図①のところに行ってみます。


まず気になるのが、文化庁HPで公開している資料の地図が、平成24年のものになっていて、現在国土地理院のHPで閲覧できる地図とは食い違っていて、当然古い10年ほど前のものです。だから、下のグーグルマップのように県道がバイパス化されているので、①の部分は存在しません。要するに、歴史の道に認定はされているけど、何もありません。(この南郷街道の歴史の道認定は令和元年ですが、既にその時には存在していないことになります。)

唯一確認できるのは、坂の上にある民家そばの、ゴミ捨て場の途切れた道路部分に明治時代の石碑があります。馬力神。

一応、周辺の山中も探索しましたが、それらしいものは見つかりませんでした。

 上のグーグルマップで?の部分が次の画像です。

車両進入禁止の草が茂った舗装道路で何に使うためのものかわかりませんが、道がつけてあります。



そして、②の部分。

ここには地元自治体の案内板と共に、街道跡の坂がありました。

クルマが通行するには狭い道ですが、私のMTBをヤギのサイズに例えるなら、それより一回りは大きな馬がすれ違える位の道ではあるかなと思います。


途中のカーブに江戸時代の石碑あり。

ここは部分的に痕跡が残っています。

お次はここです。

常陸大宮市山方支所の近く。城跡に行く途中にあります。

赤線部分は、実際には城跡に行く途中の坂道だけになります。

赤線方向にそれらしき道跡があるのか探りましたが、山中を線路方向に下る坂が山中にありましたが、街道らしき何らかの人工物は確認できませんでした。



と、ここまでの探索結果を考えてみても、昭和又は平成初期にはもう少し痕跡があったのかもしれませんが、南郷街道が認定された令和の時代において、既に保存する価値がそこに残っていたのかは疑問ですね。。。

文化庁の説明一部抜粋

歴史的・文化的に重要な由緒を有する古道・交通関係遺跡を「歴史の道」として,その保存と活用を広く国民に呼び掛け,顕彰するために,平成8年に全国各地の最もすぐれた「歴史の道」78か所を「歴史の道百選」として選定しました。

さらに,令和元年,新たに36件の道を選定し(既選定への追加選定19件),「歴史の道百選」は114件となりました。

 

過酷さを増す後半に続く!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年11月26日土曜日

八十里越え走破のための調査 その1

司馬遼太郎の小説、峠の最後のほうで出てきた新潟と福島の峠越え街道を歩いてみようと思い、ここ数年計画を練っています。

昨年、福島県の只見町で手に入れたざっくり大雑把な案内図も参考にしています。

 ここでの情報によると、福島県側の街道は、時代によって3通りあるらしい。

峠の主人公となった継之助が負傷して越えたのは古道で、途中までが登山道として現在も利用されている。ただし、利用されている部分以外は全くの情報がない。

同じく中道も、街道の跡を示すような資料が見つからなかった。


ただし、ここで太い線で描かれている新道に関しては、文化庁の歴史の道に選定されて、多分その当時に調査で通って描かれたと思われる地図がある。


 

ただ、この地図でも、歴史の道に選定された赤線以外の部分が、既存の道として今でもあるのかが怪しい。GoogleMAPの航空写真で確認してみても、この途切れた国道を開通させるべく、鋭意工事中の為にどこまで道路跡が残っているのかも怪しい。

 

これは、iPhoneのアプリでスーパー地形というものです。

国土地理院の地図を一定容量ダウンロード出来て、通信環境が無い山の中でもGPSが捕捉できればナビとして利用できる心強い便利アイテム!

文化庁の地図と照らし合わせれば、細かく蛇行している青線部分は古い道の跡の可能性があると思われる。


と、ある程度の情報を仕入れて、現地の調査を行う。

事前に調べた情報だけでは、とても越えられそうにないので、今回は福島県側の跡を見つけるだけで精いっぱいと思われます。

 

只見駅前の広場まで前日のうちに到着して、車中で仮眠。

早朝に日の出とともに出発します!

ただ、天気が悪い。。。

ぽつぽつと雨が降り出してるし、天気予報でも悪くなる予報で、やる気ダダ下がり。。。


 さあて、腰抜けが越えられるのか?

 


 叶津番所跡から山のほうに入っていきます。


太陽が昇ってきて、行く手に虹が見えます。

このまま晴れればいいのになあ。。。。


 登山道入り口。

情報と同じように、途中までは八十里越えの旧道が登山道として利用されているために、入り口付近に古道入り口の標識があります。

今回は、ここを通りません!

なので先に進みます。


って、このすぐ先、既に完成した道路の部分でも立ち入り禁止になっとる。。。。


 このスノージェットの場所って、青線部分のだいぶ手前のほうなんだけど。。。。


 しょうがないので、道から近い河原に降りて、川を進みます。


 多少なりとも踏み跡があった場合に、ちょっとでも楽をしようと只見駅から乗ってきたMTBはここからほぼ担ぎ。。。。


 MTBを担ぎながら川を何度も渡って進んでいく。

道を通らせろよ。。。。


 どこで相棒を置いておくか?

多分これ以上持って行ったところで、負担にしかならないと思う。

そもそもが、青い線の部分でも川の近辺に排水のためのコンクリートとか、昔の橋脚の名残りかな?と思われるコンクリがちょっとあるくらいで、砂利道も何もない。。。


 国道の新しい道を見上げながら、周辺に街道跡を探す。



 地図を見比べながら、文化庁が選定した歴史の道の赤線部分を探す。

ただ、川のそばで結構な斜面になっていて、道らしき感じは全くない。

そもそもが、福島県側が旧道と中道、新道に3通りある理由が、憶測ですが日本でも有数の豪雪地帯で、今年六十里越えの橋が雪崩で流されたように、自然災害によって付け替えざるを得ないことが起きたと思われる。

そんな地域で100年近く誰も使っていないから、既に道らしき痕跡が消えていてもおかしくはない。

 ということで、今回の調査はここまで!


私の結論としては、文化庁が何でこのルートを選定したのかわかりませんが、国土交通省環境省の関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)でさえ整備が行き届いているとは言えないのに、このルートを今後何らかの形で歴史や観光の資源として整備するとは考えにくい。

やるのであれば、現在途中まで浅草岳の登山ルートになっている旧道のほうをやるのが現実的であると思います。継之助も通っているんだし。(#^.^#)

 

 疲れて下ばかり見ていると、河原に沢山のエーデルワイス(シラネアオイ?)があることに気づく。


 通行止めの国道に戻ってきて、ここからはちゃりで只見駅に引き返す。

只見駅に引き返して、初めて気が付いたのですが、交互通行で通れていた六十里越えが工事の為に通行止め。。。

しょうがないので、阿賀野川のほうに迂回して新潟県側の八十里越えへ。。。

途中、笹団子の仁左エ門さんで笹団子をと思って立ち寄りましたが、売り切れ。。。

ついていないときって、こんなものなのかなあ?


 道の駅で情報を仕入れて、お土産も購入。

道路を迂回した分もう時間もないし、帰路につきます。((+_+))


 帰宅後、只見産天然なめこと焼酎、栃尾の油揚げ、新潟の日本酒で反省会。