2020年4月13日月曜日

外出制限下のお遊び 2

表題にあるように不要不急の外出が制限されている時ではありますが、その条件下でどうやって遊ぶか?
結論から言いますと、外出してます!
ただ、移動を含めて人間との接触は無し。そういう遊びです。

山登りやサイクリングはといいますと。
筑波山以外の低い山。そういうところに行っています。

MTBで快適ダウンヒル!
元々が古道であったからそれなりに道が残っていて、且つ現在でも遊歩道として整備されているからキレイです。

筑波山の近くだと、木材を切りだした道なども含めて、かなりMTBが走り回ったタイヤ痕がたくさんついているが、ちょっと離れればこの通り。
筑波山近くは、登山道以外に道がついてしまうほどMTBやモーターバイクが走り回っているので、 もともと多い登山客やトレイルランナーなどと出くわす頻度も多く、マナー問題などが時々問題になっている。そりゃそうでしょうよね、スピードの違う者同士が狭い道ですれ違えば危険度は上がる。見通しの悪い山道でちゃんとスピードを落として走っている人は少ないし。

元々、筑波山周辺を走り回っているグループが情報をネットに挙げているから、同じようなところを走る人が多いようで、逆にそこを避けたほうが快適に走れたりもするんですよね。
ということで、私はもめごとにかかわりたくないから、ひっそりと里山を走っています。
この日遭遇した(すれ違った)人は、1日でハイカー5人でした。
本来なら花と新緑の季節だからもっといてもおかしくはないんですけどね。(#^^#)

さて、そのほかはといいますと、史跡巡り。
これはまた別の日に回ったのですけど、有名なところではないから一切人に会いませんでした。

ここは神栖市の蚕霊神社です。
 鳥居のところにある蚕霊神社の由来によると、紀元前286年の3月にインド人の少女が浜に流れ着いて、その女の子が亡くなり、蚕に生まれ変わって、絹織物がこの地に広まった。そういうのをお祭りするために造営されたようだ。
 神社自体は皆新しいので、由緒書きのような歴史を感じさせるようなところがない。

 少女が流れ着いた年代が書かれていたが、多分あの年代の書物って現存していないから、後世に口伝で残されたものであろう。時代的には、秦の始皇帝が不老長寿の薬探索のために周辺諸国へ使いを送っている。日本各地で伝説の残る「徐福」の頃。日本よりはるかに記録文化の進んでいた中国の書物に記録の残っている徐福が率いた船団が嵐にあって、三重県の波田須に流れ着いたと言われているが、もしかしたらそれ以外の船員はほかの土地に流れ着いたのかもしれない。
三重県と茨城県では相当に遠いですが。。。
 とにかく、少女は病気になって死んじゃったとしても、それまでに技術全てを伝授できたというのは考えにくいなあ。そもそも弥生時代に日本は大陸からの文化的影響を受けていて、農耕や養蚕が始まっていたらしいっていう説もあるし。複数の出来事をつなげ合わせてあると考えるのが自然かもしれない。

いろいろ考えながら参拝。
おや? 賽銭箱のふたが開いている。。。
 覗き込むと1円以外は見当たらない。賽銭泥棒にやられちゃったのだと思う。
 新しく石造りでかっこよく作ったけど、ふたが持ち上げればすぐ開く構造だったからか?


 気を取り直して、境内をうろうろ。
再びこの神社の伝説を考えている。。。。
面白いことに、この絹織物の由来と同じようなものが他にもある。平安時代の頃、愛知県の浜にインド人が漂着した。そのインド人が木綿の原料となる綿花の栽培を日本へ最初にもたらしたということ。愛知県をはじめ、日本全国へ広めようとしたけど、この当時には広まらなかったらしい。話的にはクリソツ!
 絹織物は、宮中の御養蚕所で皇后美智子さまが育てていて、平成最後の年にニュースともなりましたように、皇室にとっても重要なもの。そのような長い歴史があることも事実と思う。

そんなこんなをいろいろ考えていると、 神社の由来という部分は個人的に「話を盛ってんじゃね?」って思う部分がありますが、日本で、この地方でもいつのころからかはわかりませんが、古くから地域の人たちにとって重要な信仰の対象であったという事はわかる。

 ということで、以前から気になっていたポイントを一つ廻れました。
そして、時間あるのでもう一つ行っちゃいます!

つづく!


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