この神社は、弟橘姫命と木花開夜姫命を祀る神社です。
日本武尊の東国征伐の物語では、相模の国から上総の国へ船で渡る途中、海が荒れ狂い、海の神様の怒りを鎮めるため夫の代わりに身を投げたらしい。状況からすると東京湾のはずなのですが、何故か霞ケ浦のこの地に神社があるのです。昔の人は東京湾と霞ケ浦を間違えたのか?
身を投げた弟橘姫命の笄(こうがい)が霞ケ浦のこの近辺に流れ着き、それが何故か羽を生やしこの地に飛んできたそうな。行方市羽生が流れ着いた土地の名として残っていて、飛んで来て着地したこの地が笄崎と言うそうです。
そしてこの神社の名前、橘郷と言うのは、小美玉市与沢地区、倉数地区、行方市捻木地区、羽生地区辺り一帯をさす。昔は海岸沿いの家々にあるスダチの木のような橘という柑橘類の木がたくさん生えていたことからそのように呼ばれていたという事もあるらしい。
それはこの万葉時代の句にも読まれている。
何処かの人が、文明は水辺に栄えると言っていた。
正にそうなのだろう。昔からこの地は後世に残るような文化や経済があったと思われる。
私もこの地の末裔です。
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