今ではもう無い廃線の跡を以前の水浜線のようにチャリで走ってみます。
ということで、那珂川河川敷に車を停めてチャリで出発です。
那珂川を寄り道しながら遡上していきます。
那珂川の河川敷って、道路がつながっていないから川に沿って走れない部分が多いんですよね。。。そういうときのMTBですが。
本日の出発点はここ道の駅かつらとする!
で、とりあえず周辺散策。
すぐ近くの山は歩道が整備されていて、走りやすい、いや歩きやすいです。(#^.^#)
そして、茨城交通の長倉車庫へ。
隣に太陽光発電のある国道わきの敷地。
ここは旧国鉄長倉駅建設予定の跡地であったようです。真岡鉄道の茂木駅からここまで国鉄時代に延伸する計画があって、実際に建設が始まったものの、戦況の悪化と共に工事が中止されてそのまま工事が完成されることなく無くなってしまった計画線です。こういうのを未成線というらしい。
そして、その後にバスで鉄道路線代替え運行を行っていたが、それもなくなって茨城交通に払い下げられたのであろうか?
茨城交通は地元自治体からの補助金で運行を継続しているから、ここを車庫として利用しているんですね。
こっちは旧午前山村の野口にある茨城交通の野口車庫。
もし国鉄の延伸が長倉まで完成していれば、茨城交通も御前山から野口を通って長倉まで延伸しようとしていたようです。昔は自分の市町村に最寄りの駅があることが悲願であったから、この辺の自治体は必至の懇願をしていたんでしょうね。
ここから旧玉川村という水郡線の玉川村駅へと分岐して延伸する計画もあったようだ。その辺は当時の国鉄と多分調整があったと思われるが、結局国鉄の工事が頓挫したと同時に御前山駅から長倉と玉川への延伸が立ち消えになって、鉄道の施設許可も失効したようだ。
道の駅脇にある鉄橋。かなり古い橋です。
近くで見ると結構痛みが出ている。
橋にあるプレートを読むと、この那珂川大橋は内示昭和14年だから国鉄の長倉延伸頓挫の前に計画されて、こっちは10年後に完成している。戦争の悪化と共に鉄道工事は中断されたが、物資輸送の為に最低限車が通る橋は必要とされたようだ。実際に東北本線から水郡線、常磐線と交差するように伸びる鉄道路線がどんどん赤字化で廃線されていっているから、道路網が充実してくると鉄道が衰退するという地方の事情を合理的に判断出来ていたんですね。
いろいろ妄想しながら道の駅に戻り、そこから見える高台の御前山駅跡へ。
駅跡地は太陽光発電所になっていました。
茨城通運、こんな感じの通運マークが鉄道の駅近くに多く見かける。なんか関連があるんでしょうね。
駅跡地から水戸市側には、沢を渡る橋の遺構が残っている。ここを渡って駅に入っていったんですね。
そこからは国道123号線脇に鉄道跡地があります。
そこをずっと走っていくと、阿野沢のカーブ付近から道路より分かれてちょっと下を通ります。
そして、国道から完全に分かれて旧桂村役場へ。
結構この辺は栄えていたらしい。相当昔の事ではあるようですが。
高根山大山寺。 弘法大師と縁があるという。
弘法大師さんってある意味超人ですよね。いろいろな土地でいろいろな逸話を残している。本当に一人の人間が行ったのであろうかと疑問すら感じる位に。現代でも時々あるが、有名人の名前をかたっていた人が何人かいて、その人たちが全国の土地でそれぞれの逸話を作ったのではなかろうかとも思う。もしくは、のれん分けではないけど、弘法大師さんの弟子達が長い間の語り継ぎで弘法大師になっちゃったとか?
でかいニワトリいるなあと思ったら、クジャクじゃん!!!
恐るべし、クジャクがその辺をうろつくお寺、大山寺。
子供の虫封じにいいらしい。
虫といえば、最近はギョウチュウって聞かなくなりましたね。20~30年前くらいには、子供の頃お尻にシールを貼って寄生虫の卵があるかないかを検査することをやっていた。
参照(目黒寄生虫館)
お寺の虫封じに関係あるかはわかりませんが、昔はほんとうに人間の中に虫がいたんです。。。。
私はボケ封じのお祈りをしました!
今まで通り、都合の悪いことはボケてしまいますが。
そして、桂中学校の隣にある神社へ移動。
この神社に隣接するように親鸞聖人のゆかりの跡があります。
大山草庵跡。
ここが浄土真宗の開宗宣言の地という事らしい。
インターネットを調べても出てこないし、ここの土地の人がそう言っているだけか? はたまた単に知られていないだけなのかは不明。浄土真宗ってとっても大きい宗教みたいなんですけどね。
そして再び旧桂村役場から国道123号線へ。
ここから先は痕跡が全くなくなる。この道路のまっすぐ前、石塚に登る道路が古くは鉄道の線路跡地であったらしい。
その道路に出て石塚方面へ。
そうするとAコープ常北に出る。その手前に見えるのが茨城交通の石塚車庫。
ここでも茨城交通にあたった。この車庫が旧石塚駅の跡地であるらしい。
鉄道の駅と農協の関係も興味深い。駅周辺には農協の施設ってよくありますよね。
この道をまっすぐ進んでいく。
道路わきのコンクリートの杭を見ると茨城交通とある。まさにここが線路跡であった証拠ですね。
と、ここで明らかな駅跡地発見。
那珂西駅。駅名は後から作ったものでしょうけど、手前のコンクリートは駅のホーム跡のようです。
ここから道路を下っていくと、再び国道123号線に出る。
そして、再び水戸方面へ進んでいく。
そうすると、ちょっと怖いダルマがいます。
このだるまさんの後ろの竹やぶに線路跡が残っています。また登りです。
そして大井神社の裏を抜けて渡里へと行くのです。
この辺もほぼ現在は道路が跡地として利用されています。
渡里のこの辺は遺跡が多く水戸市が作ったこのような説明文があちこちにある。
だけど、これらの一覧が無くてなかなか把握しずらい。一部はインターネットで紹介しているのだから、まとめて解り易くしてくれればいいんですけどね。
この近くには同じく一盛長者伝説の地があり、ここに住んでいた長者が奥州へ征伐にこの土地を通る源頼家を盛大にもてなししたのだけど、その豪勢なもてなしが逆にあだとなり、将来自分達より力を持った勢力にならないうちに殺してしまおうと滅ぼされちゃった。なんとも悲しい伝説の地です。
近くの藤井にも戦勝を祈願した場所があったりと、なにかと源氏の由縁あるところが多い。
まあ、それはさておき路線跡地を再びめぐる。
道路は真っ直ぐ続き、茨城交通茨大前営業所を通過し上水戸へ。
途中にはこの間も気になった大人の映画館が!
昔はちょっとした町にはあったのですが、今ではほとんどない。まさに大都市ならではですね。上水戸では水浜線と接続していました。そして、ここからJR赤塚駅へぐるっと方向を変えて進んでいきます。
と、もう街中だし面白くないので、茨城鉄道廃線跡巡りはこの辺でお開き!
こうして巡っていくと、廃線になった原因は明らかですね。収入源となる沿線の産業や住民の人口が少ない。もし今の真岡鉄道や烏山線と接続出来ていても、そこを運ぶ人々や貨物が無い。
それらをバスなどで代替えしなければらないんですけど、今のバス会社の業務体系では鉄道のように地域の行政区分をまたいでの運行の敷居が高い。JRバスなんかは元国鉄の体形があるからまたいでいるけど、鉄道と同様にインフラって繋がっているから意味があるわけで、鉄道が廃止され代替えバスもなくなった地域では地域内を廻るバスを自治体自前で運行している。そもそも自治体内での収入で支出を賄えない地方の自治体にとって、住民の基本的な権利にもかかわる移動手段を確保する費用捻出って大変どころではないし、国からの廻りまわった補助金で行わなくてはいけないんですが、それだけ廻って来るうちに無駄が出るのは、商売で問屋を通さない方が安くなる原理と一緒。
わたしは、本来であれば現在のローカル鉄道の上下分離のように固定費は国負担で、とか、バスでもやればいいのにと思ったりもする。鉄道が現状に合わない地域があるのはしょうがないのですが、替わりの手段をもっと研究するべきじゃないかなあと思いました~
今までのルールではややこしい、難しくなってきても、それでも改革せずになあなあで行っている運輸関係っておかしいよね~
0 件のコメント:
コメントを投稿