2013年8月14日水曜日

戦争で思い出す事

私は戦争を経験した世代ではない。
じいちゃんが中国に戦争をしに行った事は聞いた事がある。
なんでも、万里の長城まで行った事があるのだとか。その際に記念に貰った懐中時計を見せてもらった事がある。結局、そこまで進軍したものの、戦友の遺体を引きずりながら退却せざるをえなかった話を聞いた。
私から戦争の話を聞いた事はほとんど無かったし、じいちゃんが自分から話す事もまず無かった。中国奥地まで進軍し、無事帰国をしたが、それをあまり自慢したいとは思わなかったようだ。

逆に、身内からよりも学校の先生からは何度か体験談を聞いた事はある。
多分、教育者として戦争は良くない事と生徒に教えたいがためと思われる。
昔、茨城県は東京を空襲する為の爆撃機と戦闘機の通り道であった為に、空襲警報は頻繁に鳴ったそうだ。ルートとしては、鹿島灘沖から茨城県を通り東京に至るというルートを頻繁に利用した。だから常磐線の蒸気機関車は、敵戦闘機の格好の標的で、機銃掃射でよく白煙を上げていたそうだ。茨城県内の学校などの大きな建物は、同じように機銃掃射の対象となり、よく攻撃を受けていたらしい。先生の友達も隠れていたのだが、跳ね返った機銃の弾丸で何人か死亡をしたらしい。元々が敵戦闘機の防弾壁を撃ち抜く位の威力を持つ機銃だから、跳ね返った玉でも十分に殺傷能力があったらしい。
それ以外にも、東京を空襲した爆撃機や戦闘機が、余った弾薬を最後に投下して帰ったので、爆撃は多かったようだ。

この話をしていただいた中学校時代の先生は、もし御存命ならば90歳になる位の年齢だ。あの当時、退職なされる折に自宅の住所を教えていただいたが、失念してしまったし、全く交流はそれ以降無い。

国によって終戦記念日、独立記念日など呼び名はいろいろあると思いますが、単に勝った負けたではなく、多角的に、いろいろな人の立場に立って考え、客観的に考える良い機会と思います。

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